チェルノブイリの春エマニュエル・ルパージュ著/大西愛子訳、明石書店、ISBN:978-4750339931

『チェルノブイリの春』(Un Primtemps à Tchernobyl 2012年刊行)は、フランスで活躍するバンドデシネ作家エマニュエル・ルパージュによるドキュメンタリー風の作品である。 バンドデシネと聞いても日本では馴染みの薄いジャンルだが、簡単に言えばフランス語圏で描かれたのコミックのことだ。フランスでも日本のコミック「manga」は大人気だが、バンドデシネは日本の漫画家プロダクションで創られる量産型の本とは違い、作家一人で数年掛けて一冊の本を仕上げることも珍しくない。コミックというよりはアート作品のようで、個性的な作品が多いことも特徴である。

さて、チェルノブイリという言葉を聞くと何を想像するだろうか。
大抵の人は、旧ソ連邦で起こった史上最悪の被害を招いた原子力発電所事故を連想するかもしれない。今から30年前の1986年4月26日、ソ連邦ウクライナのチェルノブイリ原子力発電所で史上最悪の原発事故が起こった。その後の福島原発事故と同じく、チェルノブイリの原発事故も未だ収束したとは言えない状況である。しかし、この『チェルノブイリの春』は原子力発電所の危険性を訴える作品ではない。もちろん、作者であるルパージュ自身は原発と人類は共存できないと考えているが、本作では、そのことを強く語ってはいない。

物語は、キエフへ向かう列車の中でアレクシエービッチの 『チェルノブイリの祈り』を読みながら、沈鬱な面持ちで事故当時を回想するルパージュのモノローグから始まる。
彼は現在のチェルノブイリを絵描きの目で取材するために、仲間と共にフランスを出発した。彼らが取材のため滞在するヴァドラルカ村は人口300人、事故現場から約40キロの未だに避難勧告されている地域だ。この村に向かうなかルパージュが次々と思い出すのは、ニュースで見た無彩色の生気を欠いた映像や被曝者たちの痛々しい姿だった。事故から22年後とはいえ、今、自分たちが向かっているのは放射能をまき散らした原発事故の汚染地域なのだ。

村の人々は到着したルパージュら一行を大歓迎する。ウオッカとワインと料理。歌と音楽で歓迎する村民たち。彼らとの語らいの間にも、ルパージュは躍動感に満ちた人々の顔や姿をスケッチする。
原発事故によりヴァドラルカの村では多くの家が放置され、退去できるものは退去した。しかし、自分の土地や家を捨てられない者、行くあてのない者だけは残ったという。
翌朝、一行は「ゾーン」と言われる原発事故現場へと向かう。

原発事故が起きたチェルノブイリの一帯は豊かな森林に囲まれた土地であり、チェルノブイリ市は800年以上の歴史を持った人口10万人の都市であった。しかし、事故によって都市は消滅し、豊かな森林も人が立ち入ることのない危険な場所となった。ルパージュは、その場所で防護服を着たまま風景をスケッチする。
危険な場所であるはずなのに、目に映るのは緑豊かな木々と色とりどりの草花、防護服に取り付けたマイクから、川のせせらぎと野生動物たちの鳴き声も聞こえてくる。そこで見たものは、溢れんばかりの自然の姿だった。
今まで抱いていたチェルノブイリのイメージは間違っていたのか?

いや、確かにガイガーカウンターは、その場所が危険な場所だと言うことを警告している。
そのギャップに驚きを隠せず、自答自問しながらスケッチを続けるルパージュ。
「描くと言うことは見えないものの表皮をめくることだ」
「見えないものを、どう描く?」
答えを見出そうと、目に映るチェルノブイリの森を必死にスケッチする。
迫ってくるのは、自然豊かな色彩。
「うん?美しい?なんだと?美しいだと?」
「この表現は不適当、不適切、いやむしろ不謹慎じゃないのか?チェルノブイリの話なのに」
「死の危険に身をさらすと思っていた......なのに命が迫る」
命が迫る。光り輝く葉群、芽は美しいカドミウムイエロー、針葉樹の幹は洋紅、インディゴのカバノキ、飛び交う花弁の白......チェルノブイリの森は色彩に溢れている。
彼はチェルノブイリで感じる見えないもの、未知なものに触れようとスケッチを描き続けた。
やがて彼のスケッチの奥に現れたもの、彼自身この場所に着くまで想像さえしていなかった命の姿だった。

ドキュメンタリー風のバンドデシネ『チェルノブイリの春』 は、作者であるルパージュ自身がチェルノブイリで体験した数週間を描いた作品に過ぎず、劇的なストーリー展開もショッキングな描写もない。村人や仲間たちと交わした言葉、目に映る自然と人々の暮らし、そうした体験を自身のモノローグと重ねるように描写した滞在の記録である。そして記録するための道具としてルパージュが常に手放さなかったのが、スケッチブックと画筆、そしてガイガーカウンター。この美しく繊細な作品は、ガイガーカウンターが示す危険数値との葛藤の記録でもある。
まずは、ルパージュの目で感じた世界を彼の絵から追体験してほしい。読み手がどう感じるか、その判断は読者に委ねられている。

(執筆:アムネスティ書評委員会 U.M)

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チェルノブイリの春

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