book_10_big.jpgハヤカワ文庫 ISBN: 9784151200519 カズオ・イシグロ著/土屋政雄訳(C)早川書房

日系英国人作家・カズオ・イシグロが書いた「わたしを離さないで」では、クローン人間が主人公である。クローンとして生まれたキャシーとトミーの運命は、若く健康なまま臓器提供することであり、それは彼らの死を意味する。しかし彼らはなぜか、その運命を受け入れているように見える。逃げもせず、集団で造反もせず、あまりにおとなしく悲運を受け入れている。「なぜ運命に抵抗しないの?」それが私が最初に感じた疑問であった。

愛し合う2人は臓器提供を延期すべく、かつて過ごした寮施設の長に訴える。その意味では抵抗を試みている。が、逆らうわけではなく、暴力的にでもない。ひっそり恩師の住所をつきとめ、2人だけで「3年くらい遅らせてほしい」と要求するのみである。それでも受け入れられずトミーは死に、キャシーは定められた介護人という職業の疲れから、自ら臓器提供者になることを望む。

キャシーとトミーたちがへールシャムという全寮制の学校で生活していた時、臓器提供の運命について授業で説明した教師が、退職させられる。臓器提供はほのめかされながら、明確に話題にされることは避けられた。物語中で、キャシーらクローン人間はなぜ海外に逃げることができないのか?など具体的なことは書かれていない。限られた情報と隔離された環境が、彼らの抵抗しようにもできないという理由であるかもしれない。介護人という職業でつきあうのはやはり、臓器提供者になったクローン人間の仲間だけで、病院内での仕事は忙し過ぎ、一般市民と交わることは許可されていない。仕事が過酷で孤独なので、次第に介護人は自ら臓器提供者になることを望むようになる。

キャシーは、クローン人間としての運命に受身なだけではない。最愛のトミーをルースに奪われても表立った抵抗をせず、2人の喧嘩の仲裁までしている。ルースを弁護することについて「ここは説明が難しいのですが、先輩たちの前でルースが多少虚勢を張ることについては、わたしたち二人の間にある種の了解が合ったように思います」(第十一章)と正当化する。

ルースを愛しながらも責めるキャシーの語り口は、実在の人物を想起させる。たとえば私の知人はずっと前に亡くなった近親者について不平めいたことをくり返す。くどくどと不明瞭で、周囲の者はイライラすると言うが私には、失った者を諦めきれない嘆きと聞こえる。

もし私たちが臓器提供者として人工的なクローン人間として生まれたら、登場人物とどれほど異なった抵抗を試みるだろうか?限られた情報と手段しかない環境では、やはりトミーやキャシーのように、寮の噂で聞いた延期の申請をするくらいではないだろうか?キャシーとトミーは粘り強く抵抗を試み、叶わず力尽きた。私たちも、寿命がくれば死ぬ運命であることは知りながら、死に臨めば抵抗を試み、けれども死から逃れられない。

主人公たちが他人の生のために自分の命を差し出す姿は奇異にも見える。しかし戦争当事者国のテレビニュースでは、殉死した兵士の映像が流され、日々讃えられている。テレビを見る私たちは世界の紛争のニュースに心を痛めるいっぽうで、それに慣れ、虐待や虐殺を指揮する政府に対しできることには限界があるとも思っている。現実を見ないふりをしたり忘れたり、差別したりしながらときどき抵抗を試み、結局はあれこれ言い訳しながら現実を受け入れる。

前半で牧歌的な寮生活を過ごした仲間たちが、後半のセンターで次々臓器提供システムによって殺されていく。前半と後半の対象的な気配が恐怖を醸し出し、この物語を「ホラー小説」と定義づける人もいる。でも自分たちの臓器提供の道具としてだけ造ったクローン人間を、化け物か目に見えないように扱う人間の怖さは、戦争相手国の被害者数を発表すらしない各国政府と変わらない。クローンであるキャシーたちが私たちと変わらず感情を持つことは驚くにあたらないのに、もしクローン人間が実在したなら私たちは差別しないと断言できるだろうか?ちょうど彼らを救済しようとしたへールシャムの上長自身が、キャシーらクローン人間を本能的に恐れていたように。

キャシーは「わたしを離さないで」という曲に合わせ、枕を赤ん坊に見立てて抱きながら踊る。ルースは自分の遺伝的な「親」の可能性がある人物を、探しに行く。3人は離ればなれになって数年後、難破船を見に行くことを口実に再び会う。主人公たちは"Never Let Me Go"(「わたしを離さないで」)というフレーズどおり、失われた愛や記憶や未来を求め、つながりを懸命につかもうとするが、喪失感をどうすることもできない。

冒頭で、キャシーは自慢したくないとしながらも、自分がいかに優秀な介護人かを説明する。物語を読み終えるとき、冒頭の時点でキャシーはすでにトミーとルースを失っていることを読者は知る。言い訳めいた語りの背景には、大切な人を失い、それでも感情に流されず自分の存在理由を見いだし、使命を終えようとする、語り手の深い悲しみがあったのである。

運命にささやかな抵抗をしながらも乗り越えられず、折り合いをつけようとしてつけられず、受け入れようとするからこそ自己正当化めいてしまうキャシーの姿は、なんと私たち自身と似ているだろうか。
(執筆:アムネスティ書評委員会 C.S)

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わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

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