憲法の根本的な価値は何か?
私は死刑に反対の立場です。死刑については人道的な観点、哲学的な観点、宗教的な観点など、いろいろな観点から議論がなされていますが、ここでは、憲法という観点から光を当ててみた場合どういう問題点があるか考えてみたいと思います。
まず、憲法36条で残虐な刑罰は絶対にしてはならないことになっています。残虐な刑罰が許されないのは当然のことだと思います。
もう少し、憲法の原点に戻って考えてみることにしましょう。
そもそも憲法は、国家権力を制限して、国民の人権を守るための道具です。そして、日本国憲法でいちばん大切な価値は、憲法13条前段の「個人の尊重」とか「個人の尊厳」とか言われるものです(憲法13条前段には、「すべて国民は、個人として尊重される」と書いてあります)。つまり、「人は皆、かけがえのない命を持っていて、それぞれ生きる価値がある。どんなに豊かな人も貧しい人も、健康な人も、ハンディキャップを負っている人も、男性も女性も、宗教もいっさい関係なしに、およそ人間として存在する限り、かけがえのない命を持っている。その点ではだれもが皆同じである」、という価値観です。
一人ひとりが幸せであることのために社会や組織や国家が存在するのであって、国家のために個人があるのではない、一人ひとりの個人が幸せに生きることができる社会を築き上げていくことが国の仕事であるという発想です。「個人のための国家であって、国家のための個人ではない」ということです。
一人ひとりをかけがえのない存在として大切にするというのは、ある意味、だれも否定できない、至極当然の話のように思われます。しかし、率直に言って、このことをわが国の中できちんと理解し合うのは大変難しいことであると私は考えています。このことがきちんと理解されるためには場合によっては何十年もかかるかもしれません。どのような人であっても人として生きている限り価値があるということなので、どのような凶悪犯罪を犯した人でも、人間として存在する限り、その人にもかけがえのない命が存在することを認めなければなりません。
「偉そうなことを言うな。自分の身内が殺されたときに、その犯人を人間として尊重しろなんて言えるのか!」と突きつけられたら、正直言って私は自信がありません。目の前にいる被疑者、被告人をすぐに殺してほしいと思うぐらいの憎しみを持つかもしれません。それでも、やはり、罪を犯したと疑われている被疑者、被告人に少なくとも裁判を受ける権利を保障し、人として尊重しなければなりません。そこはがまんしなければなりません。
人権というのは、あらゆる人の権利を認めるということです。よい人の権利だけを認めて、それを人権というのは間違いです。どのような凶悪犯罪を犯した人間でも、人間である、ただそのことだけで人としての権利があるのです。人であるならば人として生きる権利をきちんと認める。そこが人権の出発点です。そしてこの個人の尊重が憲法のもっとも重要な価値の根底にあると、私は考えています。
疑わしきは罰しない
学生に、よくこんな事例を話します。10人の凶悪犯人が捕まってきました。9人までは殺人や強盗、強姦を繰り返しています。今の日本の制度のもとでは死刑は確実です。でも、1人だけ無実の人がまぎれこんでしまいました。だれがその1人かわかりません。さて、この10人を目の前にして、あなたが裁判官ならどういう判決を下しますか? という事例です。
全員死刑にするか、全員無罪釈放にするか、究極の選択だと迫られたときどうするか? 全員死刑にすれば9人の凶悪犯人が社会からいなくなります。でも、1人の無実の人が犠牲になります。社会のために1人の個人が犠牲になることは許さない。それが、憲法にある個人の尊重の価値観ですから、この場合、全員を無罪釈放にしなければなりません。 言い換えれば、9人の凶悪犯人が社会に戻ってきてしまうかもしれないが、そのリスクを社会全体で負担し合って、1人の命を守ろうとするのが憲法のいう「個人の尊重」です。また、このことを「無罪の推定」「疑わしきは罰せず」といいます。
社会の治安を維持するためには、「疑わしきは罰する」という選択もあるのかもしれません。この問題は、どちらがより人々が幸せに生きられるかという選択の問題だと思います。「疑わしきは罰する」という社会と「疑わしきは罰しない」という社会、さあどちらがいいか?という価値の選択です。
私たちの憲法は「疑わしきは罰しない」という選択をしました。間違っても、無実の人が処罰されたり、死刑になったりすることがない社会を私たちは選択しました。そのほうが、より自由が保障され、望ましい社会になると考えたのです。 裁判は人間が行うので、誤判の危険が最後までつきまといます。冤罪は戦後の有名な4つの事件だけではありません。最近も冤罪ではないかといわれている事件がいくつもあります。人間の判断に過ちの危険性がある限り、制度として死刑を認めることは、個人の尊重、個人の尊厳という憲法の根本の価値に反すると私は考えています。
死刑囚の人権
「死刑囚に人権があるか?」――先ほど申し上げたとおり、人間として存在する限りはかけがえのない命という価値を持っており、もちろん人権はあります。死刑は命という最大の人権を、刑罰の名の下に――いわゆる公共の福祉の名の下に――合法的に奪おうとします。ですから、死刑は国家による殺人であり、最大の人権侵害です。
死刑はある政策的な目的のために死刑囚の命という人権を制限することになります。ですから、死刑に犯罪の抑止、予防という目的があるとしても、同じ目的を達成できる、もっと人権侵害の度合いの少ない方法がないだろうかと必死に考えて模索することが、憲法の人権論からいえば当然に必要となります。
本当に他の手段では、その目的が達成できないのだろうかと必死になって考えているのでしょうか。代替手段では死刑存置の目的になっているものを本当に達成できないのでしょうか? そこをもっともっと議論し、もっと詰めていかなければいけないと思います。安易に死刑という手段に訴えることは間違っていると思います。
死刑を執行する側の人権
もう一つ、死刑を執行する側の人権を問題にしたいと思います。
死刑を宣告する裁判官、執行命令書に署名をしなければならない法務大臣、そして死刑の執行をする刑務官の人たちの人権はどうなるのでしょうか。制度がある以上、だれかがやらなければいけません。そうでなければ、その制度が維持できません。そのために、このような人々に「死刑」が強制されます。
「人を殺すことはいやだ」と多くの人は思うでしょう。でも、自分がやりたくないことを刑務官の方に任せて、「仕事だから仕方ない」というのは間違っているのではないかと思います。自分がやりたくないことは人に強制すべきではありません。これも人権の根本の発想です。自分が人を殺したくないと思うのなら、刑務官の方にそれを仕事として強制すべきではありません。
裁判官だって自分の信条で、死刑の判決は出したくないと思っている方もいると思います。死刑執行の署名をしたくないと考える法務大臣もいるでしょう。しかし、仕事だからといって、自分の信条や宗教観、世界観を投げ捨てて署名をさせ、死刑執行に荷担させることは、合理的な理由のある人権の制限とは思われません。人を殺すことを許すかどうかは、人間の根本の価値観やその人の人間性に関わると思うからです。「私は人を殺したくない」と思っている人間に、「仕事だから人を殺すことに荷担しなさい」と強制することは、その人の思想や信条、いわば人間性の根本をゆがめることにつながります。それは、公共の福祉だから、または、仕事だからがまんしろといって強制できる話ではないと思っています。
9条改憲との関連で
つぎに「9条改憲」との関係でお話しします。この問題については、反対のご意見もあるかもしれませんが、私自身の考えを少しだけ述べさせていただきます。議論をいくらかややこしくしてしまうかもしれませんがお許しいただければと思います。
今の自衛隊は国を守るための組織です。しかし、軍隊となったら人殺しの組織になります。軍隊の目的は人を殺すことです。そういう職業集団ができあがることになります。「自衛隊」と「自衛軍」ではまったく性質が違うと私は考えています。
軍隊は国を守るため、人道のため、国際貢献のために民間人を含めて人を殺します。国防や国際貢献や人道という一定の目的のために殺人を正当化できるのであれば、死刑という殺人も正当化してもいいのではないかという考えが波及していくことを恐れます。私は人の命をある政策や目的の手段、政治の手段として使うこと自体に反対なのです。人道のための戦争、人権のための戦争、自由のための戦争などないと私は考えています。
この問題についてもいろいろ議論の余地があると思います。しかし、わが国が軍隊をもって、アメリカと一緒になって人道のための戦争であるといって虐殺に荷担するようになってしまったら、一定の政策目的のための人殺しを許すことになり、死刑廃止という運動に大きな影響を与えてしまうのではないかと大変危惧しています。人間の尊厳に反することは認めるべきではありません。
EU(欧州連合)では死刑が廃止されていると聞いています。でも、コソボの空爆など、人道のための戦争を始めてしまいました。「それはおかしいではないか。あなたたちの国は死刑を廃止しているでしょう? 死刑を廃止しているなら人道目的の戦争、空爆などやめるべきです」という主張を、9条を持っている日本は、EU諸国やアメリカに対してすべきだと思います。
9条を変えて自衛隊を自衛軍にしようとする流れは、死刑をなくしていこう、人の命というかけがえのないものを政治や一定の目的のための道具にすることはやめよう、ということに対して少なからぬ影響を及ぼすのではないかと私は危惧します。
国民が憲法を知り、理解することが重要 ――被害者の人権保障の問題、代替刑への理解、裁判員制度を前にして
死刑廃止への国民の理解が少ないということですが、いろいろなお話をうかがいますと、被害者の方へのケアについて、まだまだ不十分なのではないかと思います。精神面でのケア、生活のケアなど、被害に遭われた方をあらゆる面でもっともっといろいろな形で支えていく仕組み作りをしっかりと先行させることが大切であると私は考えています。
言うまでもないことですが、今の憲法でも被害者の人権は立派に保障されています。13条でプライバシーが保障されていますし、21条で知る権利、また25条で生活面が保障されています。しかし、それを具体化する制度などがまだ足りないのではないかと思います。
改憲論議のなかで、よく、「被害者の人権が一言も書いていないのに、被告人、犯罪者の権利、人権ばかりが書いてある。このような憲法おかしいではないか」などと言われたりします。
確かに、今の憲法には被害者の人権を保障するという明文はありません。逆に被疑者、被告人の権利の条文ばかりが31条から39条まで並んでいます。「おかしいではないか」というお気持ちもわからないではありませんが、あえて憲法は被疑者、被告人の権利を規定したのです。
憲法は冒頭で申し上げた通り、国家権力を制限し、国民の人権を守ります。言い換えれば、強者に歯止めをかけ、弱い立場の者を守るのが憲法の目的です。強弱の関係がもっとも現れるのが、国家と被疑者、被告人、または死刑囚のような罪を犯した人たちです。被疑者、被告人、死刑囚といった人たちは、国家との関係で最低の扱いを受ける恐れがあるのです。
いちばんひどい扱いを受ける恐れのある人たちの人権を守れる国は、他の多くの国民の権利も当然きちんと守れる国であると私は思います。ですから、あえて憲法は31条から39条まで被疑者、被告人の権利を保障しているのです。 被害者の人権についての明文はありませんが、先に述べたように憲法上は保障されているのですから、それを具体化して国民に安心してもらうことがまず重要であり、それから、「無罪の推定」や、憲法がなんのためにあるのかなど、さまざまな憲法の価値を国民に知ってもらい、憲法を理解してもらうことが大変重要なことでないかと思っています。
事実上の終身刑という代替措置への理解も当然必要です。終身刑ということになると、凶悪犯罪を犯した人を最後まで国が面倒をみなければなりません。税金で三食の面倒をみて、おなかが痛いといったら医師の治療を受けさせ、また歯が痛いといったら歯医者さんに連れて行って治療を受けさせなければなりません。従来ならば死刑になったような人を終身刑にした場合、その一人の方に何億円税金を投入することになるのか。ここのところは是非、国民の理解を得なければなりません。大変なことだと思いますが、人権というものはそういうものなのです。
たとえば麻原彰晃氏の裁判もそうです。国の費用で弁護士がついています。何億も使っているでしょう。しかし、正義や人権など、経済的な効率性やお金では計れない価値があります。そういった経済的効率性では計れない価値を認めることができる国が文明国家だと思います。福祉なども経済的な効率性ではなかなか計れない世界でしょう。でも、そういうものに価値を見いだし、国民の皆さんが税金を出しましょうとお互いが認め合える社会が文明国家だと思います。 このようなことを国民の皆さんに知っていただき、理解してもらわなければなりません。時間がかかることかもしれませんが、これは、人類が進歩していく過程であると多くの皆さんと議論しながら、伝えていくことが必要なのではないかと私は思います。
2009年の5月から裁判員制度が始まります。重大な事件については、一般の市民の方が裁判官とともに有罪・無罪の判断をしていくことになります。そのとき、死刑制度の存在は、どう影響するのか、考えてみたいと思います。
一般市民である裁判員に、自分が死刑に荷担し、自分が人の命を奪う決断をすることがはたしてできるのだろうか? という問題があります。 一人ひとりの裁判員に過大な負担を強い、先ほど申し上げたように、ある意味で人権侵害を強制することになりはしないかという問題です。
もう一つは、いっときのマスコミ報道や世論に押されて、安易に厳罰主義、死刑の方向に流れてしまわないだろうかという問題です。市民の皆さんが裁判に関わることになった場合、この双方の側面の問題が考えられます。やはり、一人ひとりの裁判員の皆さんが、法とは何か、憲法とは何か、無罪の推定とはどういうことなのか、などをきちんと学ぶ機会がなければ、裁判員としての職責を果たすことは難しいのではないかと思います。
憲法の下での政治家の仕事
最後に、「真理は少数意見にあり」ということについて簡単に触れてみたいと思います。
民主主義とは国民の多数意見に従って仕事をしていくことです。でも、そのときどきの多数意見が間違ってしまう危険性があります。ですから、あらかじめ頭が冷静なときに多数意見に従って誤った判断をしないよう歯止めをかけていく道具が憲法に他なりません。
例えば、「凶悪犯罪が増えているではないか」という、そのときどきの多数意見やムードに流されてしまって、厳罰化の流れに行きそうだというときに、「ちょっと待てよ。もっと冷静に考えてみよう」と、その多数意見に歯止めをかけるのが憲法の役割です。言い換えれば、多数決でもやってはいけないこと、多数決でも奪ってはいけない価値――すなわち人権――を列挙したものが憲法に他なりません。そのときどきの国民世論の大多数がこうだからといって、これに従えばいいというわけではないのです。
少数者を守ることが人権保障であり、また憲法の存在意義そのものです。ですから国民の大多数が死刑を存置すべきであるという意見だったとしても、「人権」という観点から、たとえそれが少数意見で、多数意見に反する場合であっても、これは正しいと主張していくことこそが立憲民主主義の国の政治家の皆さんのお仕事だと思います。
ときに、真理は少数意見にあるということです。イギリス、フランスが死刑を廃止したときにも、国民世論の大多数は死刑存置に賛成だったそうです。そのような状況の中で、政治家の皆さんが勇気を持って決断をされました。日本でもまさに、そういう決断がなされることを心から願ってやみません。ぜひ、人類の理想のために、がんばっていただければと思います。
(この原稿は、2006年4月18日、衆議院第2議員会館で開かれた死刑廃止を推進する議員連盟総会での記念講演をまとめたものです。)