死刑賛成論は被害者の人たちの立場に立った論のようにいっていますが、それでは全然解決にはならないと思います。 皆さん死刑についてよくわかっていない、特に執行する人の問題というのを私は考えます。
労働者の問題としての死刑執行といいますか。 こんなことは――死刑執行なんてことは――、誰もやりたくない。
死刑賛成の人だって絶対いやですよね。誰かにその役は押しつけている。死刑執行人という誰もやりたくない役を、みんなが押しつけているけれど、実際に死刑執行をする人にもちろん殺意なんかないわけです。納得なんかしているわけがない。 「仕事として人を殺す」ということを考えると、本当にそれは一人ではとても背負えないことをやらされている。そんなことを刑務官の人たちに押しつけていいのだろうか。それで保っている死刑制度というのは何だろう……すごく考えます。それを押しつけているのは私たち自身なのだということです。
死刑というのは究極の排除だと考えます。私はプレカリアート(※)関係の運動をしていますが、貧困からの犯罪というのは、どの国でも共通する問題だと思います。 小さい時からストリートチルドレンのような排除があって、その後も貧困から出発した子どもたちは、たくさんの排除の中で育ってくる。その排除の中から犯罪が起こって、それでその人たちが死刑囚になってしまうという状況がある。 このような社会的排除というのは、「貧乏人は早く死ね」みたいなこの国の状態があって起こるわけで、その延長線上に死刑の問題もあると思います。 「犯罪者は早く死ね」みたいな、すごく嫌な方向にすすんでいると、プレカリアートと死刑の問題として感じています。
※プレカリアート:イタリアでの落書きから始まった言葉と言われる「不安定な」という意味のprecarious・PrecarioとProletariato(プロレタリアート)の合成語
(この原稿は、2007年6月26日に行われたトークイベント、「映画『私たちの幸せな時間』から考える ― 罪をつぐなうとは何か」での雨宮処凛さんの発言をまとめたものです。雨宮処凛さんのホームページ)