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「最初からずっと信じている。一日も早く出してあげたい」 袴田ひで子さん

「負けてたまるか」。巖さんを生きてふるさとへ取り戻すため、過酷な現実に立ち向かってきた、袴田巌死刑囚の姉、袴田ひで子さん。密室における自白偏重の捜査がどのように不公正な裁判を招くのか、そして死刑制度がいかに巖さんを追い詰めたのか。袴田ひで子さんと支援団体から、袴田事件に込められた司法の問題点と、46年間のご家族の支援の日々、そして再審開始への思いをお話しいただきます。

袴田事件とは?

1966年6月30日、静岡県清水市(現静岡市)のみそ製造会社専務、橋本藤雄さん方から出火、一家4人の遺体が発見された。県警は 8月、強盗殺人容疑などで、工場の従業員袴田巖死刑囚(76)を逮捕した。

袴田死刑囚は、公判で無罪を主張したが、67年8月に工場のみそタンクから見つかった血の付いた「5点の衣類」が有罪の証拠とされ、80年に死刑確定した。81年からの第1次再審請求は2008年に最高裁が特別抗告を棄却した。現在、第2次再審請求の審理が続いている。
2012年4月には、弁護側・検察側双方の鑑定が、確定判決で袴田死刑囚の犯行時の着衣とされた「5点の衣類」と、袴田死刑囚本人のDNA型は「完全に一致するものはない」と結論付け、再審開始の可能性が高まっている。

袴田ひで子さん

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6人兄弟の末っ子・巖さんの3歳年上の姉。1968年の巖さんに対する死刑判決後、「ひで子、ここまで来たからには、やるだけのことをやろう」と言っていた母、ともさんの後を受けて、兄弟の中の中心的存在として巖さんを支え続けてきた。ともさんは、死刑判決が出た年に亡くなっている。 2010年8月以降、巖氏は面会拒否の状況にある。しかし、ひで子さんは変わることなく、毎月1度は上京し、東京拘置所の巖さんとの面会を求め続けている。

袴田巖さん

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元プロボクサー。現在76歳。1966年8月、逮捕。取調べは、真夏の取調べ室で23日間、毎日12時間以上、徹底して続いた。水も食べ物も与えられず暴行をうけながらの取調べ。いつ終わるとも知れない取調べで攻められ続け、果ては命の危険を感じた。袴田さんは、「自白」をしてしまった心境を手紙でこう綴る。「この状態では、私自身の命も守ることが困難であったのだ。先ずは、清水警察の手から逃れることが急務であった。」と。

私たちの力で、私たちの司法をより良いものに
これからも一緒に声をあげていきましょう

アムネスティ・インターナショナルは、2008年より、袴田巖さんを「危機にある個人」として、国際人権基準に沿った公正な再審の実現と、死刑執行の停止などを求めて、支援を続けてきました。

逮捕から20日余り、巖さんが自供したというニュースを、寝込むお母さんに、すぐに伝えられなかった姉ひで子さん。「世間を狭くして生きるしかないね。」そう答えたときの、お母さんたちの胸の苦しみは察するに余りあります。

拘禁の苦しみ、不正への怒り、そして絶望の渕から立ち上がる強さ。私たち市民が矛盾や不正義に怒りを持つとき、私たちの司法はより良いものに変えられます。

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このスピーキング・ツア―では、袴田さんへの支援の輪を広げるために、缶バッチを作製しました。この缶バッチは、今後、寄付してくださった皆さまにお配りする他、スピーキング・ツアーの会場などで販売する予定です。

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