大阪拘置所
私は大阪の拘置所と仙台の拘置所で死刑囚を扱ったことがあります。私がいたとき は大阪では執行2日前に告知をしていました。仙台では執行当日でした。処刑という のは何ともいえないことです。結局は、職員が人を殺すことですから。
大阪の拘置所では、ピンポン大会、誕生祝い、映画大会や書道大会が開かれていま した。そのためか、「職員にこんなにしてもらっているのはありがたいから、心配かけまい」という気持ちが死刑囚全体にゆき渡っているのでしょう。だからかえって逆 に、彼らのほうが職員のかゆいところに手が届くように気を使ってくれるわけです。
職員もまたいずれ殺されていくのだからと、一生懸命に彼らを大事にしていました。
処刑前後の出来事
でも、いざ処刑されるという通知がくると大変なことになります。
私が印象に残っているのは九州出身のある人です。農家の長男だったので、お母さ んが家業を継ぐようにと希望しましたが、本人は農業が嫌いで家を飛び出してしまい ました。そしてその後、罪を犯して死刑囚になってしまったのです。
当時は大阪では2日前に告知をしましたから、処刑前日に家族との面会がありまし た。お母さんが九州から食べ物を持ってきてこう言いました。
「おまえが死刑囚で処刑されるけれども本当はお母さんが悪い、おまえに無理やり 農家をすすめたのがいけなかった。だからお前は家を飛び出して悪いことをしてし まった。だから罪はお母さんにある。お母さんが処刑されたい」
それに対して「いいや、僕が悪いのです」と死刑囚が言うと、お母さんは彼に話しか けながらも、顔は職員に向けてこう言うのです。
「お前は小学校では成績もよく先生にもほめられ、友だちの喧嘩の仲裁もしたな あ。お前はこんなことをする人間じゃあなかったなあ」
いよいよ4時になると面会も終わりで、お母さんは最後に、「来年の8月のお盆には お前の好きなものたくさんそろえて待っているからなあ、楽しみにしてこいよ」と言 いました。
翌日、九州に戻ったお母さんは、処刑が10時ごろだというので9時から11時までご 燈明をあげて仏壇の前でお祈りをしていたそうです。そうしたら、10時ちょっと過ぎ に風もないのにふっとお燈明が消えた。一週間後に、大阪にお骨をもらいに来て、職 員から死亡時刻を聞いたら、それはちょうどご燈明が消えた時間でした。お母さんは びっくりしてお骨を抱いて泣き崩れました。
死刑囚の思い
ある時のピンポン大会で一人の死刑囚に――本当は職員の個人的なことは言っては いけないのですが――ポロっと自分はキリスト教信者だと言ってしまいました。そう したら、その死刑囚もキリスト教徒でした。
それからというもの、何やかや私のとこ へ相談には来るし、処刑される前日も会いたいと言ってきて、「綱汚すまじ 首拭く 棺の水」と私に書いて寄こしました。それから、「ふとん様、ぞうきん様、ありが とう」というのも寄こしたのです。
これは命がけでくれたものだから、なくしてはい けないと思って、出入りしている神父さんに訳を話して渡しました。
私は死刑囚には言っておりました。「私とあんたは一緒だよ」と。「きれいな人を 見ればいいなあと思って、嫁さんにしたいと思うけど次の瞬間にはそれを打ち消して いる。あんたは、たまたま実行する場にぶつかってしまった、だからやってしまった だけと違うか」と。
死刑囚たちは一生懸命なだけに、物事の見方や考え方が私よりも 深いのです。だから、とても教えられるということがたびたびありました。
刑務官としての苦悩
処刑するというのはどうにも辛抱できません。死刑囚本人は覚悟しとると言います けれど、処刑日の退所後は自分ではどうしようもないのです。お酒飲んでもだめ、パチン コしてもだめ。
私は困ってバスに乗りました。どこ行きのバスかは知りませんでした が、終点まで行きました。そしてまたバスに乗って戻って、住吉という所に行きまし た。
住吉から歩いて田んぼのほうへ行くと稲荷さんの大きな森がありました。私はその中に入りました。もう夜中の12時近くでした。森の中で、「死刑囚よ、お化けでい いから出てくれ!」ってそう言いました。
処遇をし、処刑をする立場にいる者だからこそ、死刑の実態を知っている者だから こそ、死刑をやめてくれ、と言えるのです。
裁判所で判決理由これこれ、あれだけの 犯罪を起こしたのだからしょうがないと言い渡しをするわけです。しかし、それだけでは済まされない問題だと思うわけです。
私は、死刑は残虐な刑だと思います。人間 が人間を殺すということは、どんなに手当てをもらってもみんな嫌がります。これは 恐ろしいことです。どんなに立派な言葉で納得させようと思っても、安心できることがありません。
殺さずにすむために
私は100歳満期懲役刑という刑はどうかと考えています。100歳になったら出す。これを死刑の代わりにすれば、職員は殺さずに済むわけです。
終身刑はやはり残酷です から、満期がなくてはだめです。アメリカには仮出獄も恩赦もない終身刑があります が、一生死ぬまで刑務所でと、そこまでする必要はないと思います。
前にも言ったように、仙台は当日、大阪は二日前に処刑日を告知していました が、やはり大阪のほうがよかったと思います。
大阪では、死刑囚が一般の囚人と一緒 に映画会をしたことがありました。最後に一般囚人から「がんばれよ」と声をかけられ感激した死刑囚は、頭を下げながら涙して引き上げて行く。大阪でやっていたああいうのはいいと思います。
(この原稿は、アムネスティの死刑廃止入門ビデオ「死刑廃止を考える」作製のため、1998年に行われたインタビューの一部を、読みやすく書き直したものです。)
戸谷 喜一(とや・きいち)さんのプロフィール
1911年(明治44年)群馬県に生まれる。33年、法政大学法科卒。40年、大審院検事局記録係主任書記官。43年、応召され、北支に派遣。44年に復員、看守長に転官。45年、新潟刑務所長代理を務める。 以後、仙台拘置所、大阪拘置所など各地の矯正 施設に勤務。72年に定年退職。その後、堺簡易裁判所民事調停委員になり、定年退職まで11年勤務。大阪刑務所在職中に、高野山大学において友田教授のセミナーに参加、カウンセリングの道に入る。その後、日本カウンセリング学会の設立発起人になる。現在、日本カウンセリング学会初回名誉会員、大阪地方裁判所・名誉調停委員、勲五等瑞宝章受章。大阪府在住。著書:「原爆新潟 私の終戦」、「団地族明治男の24時間」、「このような長寿健康法は如何でしょうか」、「死刑執行の現場から 元看守長の苦悩と死刑存続の可否」など。